もう、数年前の話だけれど、
私の父は、ALSだった。
最初、横になると、苦しくて眠れず、炬燵に突っ伏して寝ていた。
涎が凄く、そばにタオルをひいていた。
たまに私が実家に行った時も、ほとんどその状態で寝ていて、
傍目から見ても苦しそうだった。
きついの?と聞いても、大丈夫やと言ってた。
近所の人も心配して、病院へ行きやんと言っていたみたいだが、
反対に怒り出す始末だった。
行きやんとは、鹿児島の方言で行きなさいという意味。
長いこと辛抱していたようだが、辛抱しきれず病院へ自ら行くと
言い出したらしい。
行きつけの病院で別の大きい病院を紹介され、行ったところ
即入院。
数日後、主治医から話があるとのことで、母と病院へ向かったら、
はっきりとは言えないが、ALSの疑いがあります、とのことだった。
筋萎縮性側索硬化症。
最初聞いたとき、何?と思った。
初めて聞いた病名だったから。
症状としては、全ての運動機能が失われるとのことだった。
五感は全く失われない。
例えば、手をつねられて痛いと感じても手を払いのけることはできない。
自発呼吸ができないので呼吸器必須。
それがないと、死に至る。
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
説明はしてくださったのだが、ほとんど頭に入ってこなかった。
母は、病名だけは聞いたことがあったみたい。
耳は聞こえても話はできないから、身振り手振りと、筆談だった。
意思疎通が、なかなかできなくて、ちょっとイライラしていたようだった。
呼吸器をはめたままだから、鬱陶しいのかよく手をやっていた。
外さないように誰もいない時は、拘束していた。
この病気は難病で、一進一退あり、治ることは現在のところない。
当時私は残酷だなと思っていた。
五感はあるのに、表現することができないのだから。
たまに見舞いに行けば、早く帰りなさいと言わんばかりに手を振っていた。
帰るときは父と握手して帰った。
私は、父と手をつないだことあったのかな、と一瞬思った。
段々状態は悪くなり、胃ろうにした。
しばらくは調子もよかったようだが、誤嚥性肺炎にかかり、
寝たきり状態になった。
何かの用事で主人と親戚の家に行ってる時に
息子の様子が気になって途中で家に帰った。
息子が、ばあちゃんから電話があったと聞いたので、即実家に電話。
父の状態があまりよくないので、このまま治療を続けるか、
それとも打ち切るかという相談だった。
私は、これ以上父の苦しむ姿を見たくない・と、泣きながら
言った。
見舞いに行っても、髭は生えたまま、涙を流した跡が、乾燥していた。
拭いてあげたかったが、傷ができるからと、母に諫められた。
病院に任せている以上、こちらは手を出せないと思っていた。
ある日の朝早く、携帯がなったのだが、タイミングがずれて、
出られなかった。
後程母から電話があり、危篤とのことだった。
母は、病院へ向かい、私は、そのまま家にいて、2人分の
弁当を作ったり、息子を駅まで送っていった。
先客があり、霊安室にはいられないとのことで、葬祭場まで。
私は、そこで母と合流した。
弟夫婦は、その日に飛行機でたち、夕方着くとのこと。
母がちょっと出ている間、主人に電話連絡をした後、
泣いた。
いつの間にか眠ってた。
それからが忙しかった。
いろいろな段取りや、弔問客の対応等々。
叔父叔母も来てくれた。
食事をしながら話を聞いてはいたのだが、私が倒れてしまった。
しばらく寝かしてもらい、目が覚めたので、引き止められたのだが、
家に帰った。
風呂に入りたかったのだが、気分がすぐれず入るのをやめ、
息子を弔問に連れていった。
その前にひと悶着あったんだけどね。
深夜0時前だったので、寝てるわけないけど、寝てるかもと
思い、そ~っと葬儀場のドアを開けたら、弟と目があった。
どっちもビックリ。
少し息子は弟と会話。
線香をあげた後、息子に叔父叔母を紹介。
どちらも初対面なので。
何とか無事に家に帰りつきました。
唯一の救いは父の死に顔が穏やかだったこと。
今も後悔してるのは、父のことではなく、
息子のことを優先にしたこと。
前に母から言われたことだったんだけどね。
希望は、この病気の治療法が確立されますように。